(その90)【ビデオセミナー300本プレゼント→受講お申し込み・U815】


受講にあたって

【勉強・仕事歴】

・幼少期の原点

生まれて間もない頃からおもちゃや人形より、新聞や電話帳に手が伸び、何時間も眺めて悦に入る赤ん坊だったと聞いています。その後も何らかの読み物と紙と鉛筆さえあれば幸せで、テーマの硬軟を問わず調べものをしたり、様々な手法(文章、漫画、イラスト、戯曲、音楽、ダンスなど)により、個人あるいはグループで創作・表現をしたりするのが好きでした。また、生徒会や学生新聞・学生雑誌編集などの課外活動のなかで、自分以外の方々の声を聞き、編集してかたちにする、媒介者的な役割もよく担っていました。出版・高等教育といった、知的創造に関わるキャリアの原点は、意外と幼い頃からあったような気もいたします。


・英語と中国語の基礎


英語に関しては、音声学者の父親の仕事の関係で、幼少期に半年のみ英国で過ごしたり、彼の同僚や近所の英語話者の方とたまに交流する際に使ったりということはありましたが、あとは、やはり独学で英語を身に付けた父親の影響で、基本的に自分で勉強していました。ただ、父親と同じ道を行くのは面白くないと思っていたので、古文漢文が好きだったこともあり、大学では中国語専攻に進みました。

学生時代はあまり職業的ビジョンがありませんでしたが、ほぼ中国語・英語の習得に熱中していたように思います。天安門事件直後だったため中国語専攻は非常に不人気で、同学年は4人だけでした。私以外の同期は中国語の達人ばかりだったので、彼らと同等以上のレベルになろうと頑張っていたのを覚えています。やがてある程度学習が進むと楽しくなり、神保町で原書を漁ったり、中国映画祭に通い詰めたり、中国語話者の方とランゲージ・エクスチェンジをしたり、中国語の新聞を題材にしたマンツーマンのディスカッションに興じたり、中国語弁論大会に出たりする一方、当時圧倒的な人気学科だった英文科の方々に交じって英語で提供される授業にも参加していました。


・新卒で編集者に、その後米国大学教員に転職+出版翻訳をほんの少々


職業生活に入ってからは、たんに興味を追求するだけでなく、状況や心境の変化に合わせて、軌道修正・路線変更を行うプロセスの連続だったと思います。そのせいか、自分のキャリアは、見方によっては一貫性のない理解不能なものとも言えるかもしれません。スティーブ・ジョブズは、スタンフォード大学でのスピーチで、“You can’t connect the dots looking forward, you can only connect them looking backwards. So you have to trust that the dots will somehow connect in your future. You have to trust in something: your gut, destiny, life, karma, whatever.” と述べています。私も、変遷するキャリアの途上でdotsをたくさん打ってきたと思いますが、それらがつながることについてどれほどの確信が自分にあったかはよくわかりません。しかし、今振り返ればこうしたdotsはうっすらつながっていたようにも思えます。

今の自分を知る人は驚くかと思いますが、大学3年次での暫定的なキャリアゴールは、中国語学や中国語教育に関わることでした。教授の勧めもあって中国語と英語を両方生かして、留学を経て大学院に行く計画で、実際現地の大学にも数か月行っています。ですが、その教授の突然の死がきっかけで、急きょ滞在を短縮して帰国し、遅ればせながらの就職活動を始めることになります。

その結果たまたま獲得できたのが学術出版社の編集者のポジションでした。小規模の会社だったので、最初から企画・編集・ディレクション・校閲・広報など、書籍づくりのすべてを総合的に任せて頂き、約5年弱の経験を積みました。常に企画を考えつつ、著者の方の開拓やサポートを行い、上層部や営業・制作の方々と話し合って様々なフェイズで社内的なコンセンサスを図りつつ、それと矛盾しない形で外注スタッフやブックデザイナー、印刷所・製本所の方々のご協力を仰ぐなど、日々マルチタスクに追われていました(ちなみに翻訳会社の職務で言うPMの方のお仕事にも通じる点があるような気がいたします)。

そこで初めて仕事として英語に関わることになります。実は翻訳書が初仕事だったのですが、訳者である大学教授(故人)の翻訳に大量の間違いや問題点を見つけてしまうというヘビーな体験をします。結果、教授の顔を立てながら、外部の校閲者の方々とチームを組んで、原典と首っ引きでお手入れを行うかたちで、実質的に翻訳者的な業務を手掛けたのでした。努力の甲斐あってなんとか出版・売上に貢献し、以来その実績がきっかけで、翻訳書企画や海外の著者とのやりとりの際には頼りにされるようになりました。だいぶ後でほんの少しお受けすることになる出版翻訳のお仕事の出発点はここにあったかもしれません。

ただ、多くの大学教授の方々とお仕事を続けていくなかで次のステップとして当時漠然と志向したのは、翻訳そのものではなく、自分が英語を本格的に使い、かつ著作や教育にも関われる仕事でした。そして、当時言語教育の分野での修士号を働きながら取れる米国大学院のプログラムが複数ありましたので、そのうちのひとつを卒業しました。大学院では英語で英語を教える教育を理論・実践の両方で学びました。多くの文献を読んで議論するばかりでなく、プレゼンテーションや論文による大量のアウトプットを通してアカデミックリテラシーを鍛え、かつTeaching Assistant として学んだことを現場に還元することで、教育者としての基盤づくりを徹底して行いました。

その後、ある米国大学に転職が決まり、以来、主に海外出身の学部生の方を対象としたリテラシー教育の分野で、14年ほど教鞭を取っております。意外にも、学生さんの知的成長を引き出すカリキュラム開発やメンタリングを行うプロセスには、大学院での訓練内容だけでなく、編集者時代に著者の方々のサポートをした経験とも、連続性や親和性がありました。

米国大学教員になりますと、学生の教育はもちろんのこと、学務一切の遂行や、教材・著作物の作成などは英語で行うのが当たり前ですので、この時点でもあまり翻訳に興味はありませんでした。しかしながら、1日10時間以上、土日も含めて大学の教育業務という生活のなか、ほんの少しだけ出版翻訳を手がけた時期があります。そのうちのひとつが昔からの友人でもある編集者から依頼された新書でした。

比較的気軽に引き受けたものの、翻訳にあたっては、たった300頁ながら出版まで1年半の時間がかかりました。特に内容の根幹に関わるファクトチェックは入念に行う必要がありました。疑問がある場合は、原著者の方には事情により直接お伺いはできませんでしたが、自分の同僚を含め原著者の関係分野の方々にお問い合わせしたり、大量の関連資料を収集したりしました。さらに、脱稿直前に原著者の方が半分以上大幅に内容を改稿するという不測の事態が起こり、訳し直しや補足を行うはめにもなりました。幸いにして納期通りに出版され、増刷が2回かかるほど売れたので、結果的によかったのですが、米国大学の世界ではあまり日本語の翻訳は評価されないので、その後翻訳方面のキャリアを積むことも考えず、ひっそりと一発屋になっておりました。

一方、会社員上がりで遅れてアカデミアに入った身として当時優先しようとしていたのは博士号の取得です。学位によって待遇が変わる米国大学特有の環境や、将来日本の大学で働く可能性も考慮してのことです。日本の大学全般においてや、理系分野の研究者トラックのキャリアではあまりない例かもしれませんが、米国大学で教育を担当する教員は、教えながら博士号を取るのが普通で、自分も毎日10時間以上働きながら、空き時間で研究をするという生活を8年ばかり続けました。

自分の研究は、統計などを使わない記述的・探索的な、取るに足らないものです。しかし、仕事の合間にトータルで数千の論文や関連書籍を読み(最終的に研究に使った文献は数百点程度です)、研究参加者の方々との関係を構築し、そこから得た1000頁以上のデータを分析し、日々問いを立て直しながら、370頁強の英語論文にまとめ、目標としていた国際学会で一部を発表できた経験は、直接お金にこそなりませんでしたが、一つの自信にはなりました(ちなみに、定期的な第二外国語試験で中国語を選べたのは救いでした)。


【講座受講決断への経緯】

・時代の変化とキャリア再構築の模索

通常なら、ここで、本格的にアカデミックキャリアの追求が始まるところです。ところが私の場合は、博士論文のwrite-upの段階に入った頃から、次第にアカデミアの外を視野に入れたキャリアの再構築へと気持ちがシフトし始めていました。ちょうどその頃、レイ・カーツワイルの『シンギュラリティは近い』やリンダ・グラットンの『ライフ・シフト』を読み、指数関数的な人工知能技術の発展や、人生100年時代への突入など、今後現実化する激動の世界について知り、身震いがとまらなくなっていたのです。同時に高等教育をめぐる諸状況も厳しくなり、日本の大学への転職は選択肢として考えられなくなりました。加えて、どんな分野でも×Techになっていくなか、人文・社会科学の素養の上に、STEM(Science, Technology, Engineering, and Math)分野の知識やスキルを増強していく必要性を感じていました。

幸い今の仕事にはやりがいがあり、恒常的な需要は感じていました。しかし未曾有のペースで変化が加速・拡大していく時代、そしておそらくはまだ数十年は生きて行かなければいけない(つまり「逃げ切り」はできない)世代にあっては、目の前の単独の世界や組織に依存する生活ではいけないのではないか、何か別の仕事の柱を新たに開拓する必要があるのではないかと考えずにはいられませんでした。そこで米国大学教員として献身しつつ、パラレルで起業する方向性を探り出したのでした。

正直、博士号取得後1年くらいは懊悩の日々が続きました。様々なビジネスを研究したり、実際多くの文系・理系の起業家の方とお話ししたりして感じたのは、日本を相手にする場合、大衆的なビジネスのほうが稼げるようになっていることです。海外ではアカデミックとビジネスがリンクしているケースも多いのですが、残念ながら国内ではそうしたケースは稀少です。

自分の場合、一般企業・アカデミアの両方を経験しつつも、それぞれの領域での実績はぱっとしませんし、マスカルチャーからは遠く、よく言えば「レガシー」、悪く言えば「オワコン」の路線と見る向きもあるでしょう。そのうえTechにもマーケティングにも強みなしときていますので、今この国でゼロから顧客やビジネスパートナーを獲得するのは至難に思われました。一方、すでに動いている人様の新規ビジネスにお力添えすることも考え、小規模スタートアップのCEOの方々からサポート的なお仕事(語学を生かしたメディア系やコンテンツアドバイジングなど)をお受けして少しやってみた時期もありますが、大学の業務との両立が難しく、また自分のベストの部分が出しづらい感がありました。時間的にも労力的にも、フルタイムで本業を行うなかでの複業は簡単ではないこともわかりました。


・翻訳との再会と講座体験


懊悩の日々に一点の淡い光明らしきものが差したのはつい最近のことでした。古巣の学術出版社の後輩社員の方の20年ぶりのお声掛けで、継続して出版翻訳のお仕事をすることになり、そこで翻訳という仕事を思い出したのでした。大昔の編集者としての実績や、なけなしの出版翻訳の経験を覚えて頂いていたことに感動を覚えると同時に、分野によってはまだ翻訳というものには需要があるのかもしれないと、少し前向きな気持ちになることができました。ゼロイチの起業ではなく、多少なりとも経験のあるクライアントワークから始めるという方向性も、自分には現実的に思えました。

ただし、久しぶりにリーディングや試訳に取り組んでみて改めて気づいたのは、出版翻訳は一冊一冊が一点ものであるため、時間がかかる割にレバレッジがききにくいことです。そこでもう少しほかの分野の翻訳についても検討し始めました。特許翻訳、続いて講座について知ったのもこの頃です。

匿名の個人の方による講座にベットするのはもちろん勇気のいることではありました。しかし、10年前くらいの、まだ管理人様が会社員として副業で翻訳をされていた時期の真摯でハイレベルなお仕事の記録や、そのご経験を基礎に開発された、密度の濃い網羅的なビデオ教材、個人の状況に合わせてのdevelopmentが可能なシステムなど、講座のエッセンスがうかがえる情報が大量に開示されていたため、自然に不安よりも知的・職業的好奇心が上回る結果となりました。かつ、受講された先輩方の並々ならぬ努力とご活躍のドキュメントの数々にも非常に感銘を受けました。そして、管理人様ご本人とじっくりとスカイプでお話しする機会も頂けて、貴重なアドバイスも賜ることができたので、受講開始への決意が固まりました。

自分は期が変わる直前での申し込みを検討しておりましたため、300本のビデオをご提供頂いた後は、最初の1週間で自分なりに早急に全容を把握する努力をしました。全体の内容からいくつかの暫定的なカテゴリーを同定し、それにそってビデオを35本ほど拝見しながら、ノートにメモをとり、場合によってはキャプチャをとりながら関連資料を印刷・ファイリングしていきました。併せて、受講生の方が書かれた著書2冊(ご自身の学習に関するケーススタディやIT環境整備について)も拝見し、さらに付箋をつけながら『新物理の散歩道』(1)と、『化学のドレミファ』(1)を読み、今後特に理解を要する領域や興味深いトピック(ほとんどですが)をチェックしました。

明細書は、特許庁の『知的財産権入門』の様式のチャプターと、P&G特許ビデオの4まで拝見したあと、まずは一つ自分で通読してみたくなり、P&G特許の日英語版両方について一気にtextual analysis/annotationを試みました。まず全体の大意や論理構成、セクションやパラグラフごとの意図やそれらにまたがる論旨の流れを把握するglobal readingを行い、続いて、すでにかろうじて理解できる知識と補完・拡充すべき知識(もちろん後者が大半です)の確認や、文脈からわかる概念の上位・下位の階層の把握、レファレンスのチェック、表現面のチェック、その他の気づいたことをメモするなどのlocal readingを行いました。さらに英語のテキストについてはText-To-Speechをかけ、耳で速聴しながら特に化学用語の英語と日本語とのギャップを意識しながら読むこともしてみました。

全体を通して複数回両言語で分析的に読むことで、様々な学問領域・技術領域・ビジネス領域の交差が表現されている明細書というジャンルに深い関心を寄せるとともに、ますますこれから理系分野の知識を積み上げ、肝心の発明の内容を深く理解できるようになりたい、というモチベーションがあがりました。また。ちょうどSTEMに詳しくなりたいと考えているタイミングでもあったことも手伝って、特許翻訳という分野に大きな魅力を感じ、この道で陰ながらお役に立つ志を新たにいたしました。さらに、今の段階で申し上げるのは恐縮ですが、究極的には、特許翻訳をアルファかつオメガとしながら、不易流行のバランスのもとに時代を生き抜くための総合力を涵養したいと思いました。


【今後の予定】


特許翻訳のプロになるには、一定の時間が確保できないと厳しいと思いましたので、取り急ぎ担当授業の量を週2回に減らすことにしました。当面収入は減ることになりますし、希望すれば再び授業数を追加することはできますが、今は目先の収入を得ることより時間というリソースへの投入を重視することに決めました。

長期的にはいろいろなビジョンが考えられますが、まずは、1年以内に特許翻訳の分野で仕事が獲得できるように尽力する心づもりです。そして、2年以内に減らした分の年収が稼げるくらいになりたいと思います。基本的には、大学の仕事を続けながらの勉強となりますが、管理人様よりアドバイス頂いたとおり、最初の半年は明細書の大量読破と、物理化学の徹底的な学習、それと並行してメモリ・用語ベース構築に力点を置き、その後、これらに加えて自力での翻訳実践や仕事獲得に向けての営業活動も行おうと思っております。

ジョブズは前掲のスピーチで、 “…[B]elieving that the dots will connect down the road will give you the confidence to follow your heart, even when it leads you off the well-worn path”と続けています。この講座を通して、再びdotsを次々と打っていくことになりましょうが、今後はそれらの新しいdots同士がつながり、かつ今までのdotsともつながっていくという確信をあえて強くもちたいと思います。そして、これまで以上にthe well-worn pathを外れようとしている自分を鼓舞しようと思います。どうぞよろしくお願い申し上げます。






※いよいよ時代が「ニュータイプ」の登場を求めているのか、と。この方とスカイプして想いました。有名な大学で英語を教えているだけでなく、英語と中国語の両刀遣い、加えて編集者としての経験。こういう方が大学で文系・理系の境目無く、教育プログラムを打ち出せるようになったら劣勢の日本の教育も変わるかも知れません。

北斗の拳風にいうと「若き日のラオウに出会ったリュウケン」の気分です。世代交代は避けられませんね。スカイプで振ったネタを実現できるようにとりあえず1年は頑張ってください。結果は出ると思います。引退する前に、新しい時代の夜明けを見てみたいものです。